松月の歴史

旅館一筋、勤続30年も松月で働いてくださった元社員の方たち

2008年07月23日

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7月15日にリニューアルした翌日の16日、先代社長の1周忌をとり行いました。

先代社長が一生を旅館に尽くしてこられ、念願であった旅館の新築を平成11年にしてから早くも9年。今年はさらに生まれ変わるべくリニューアルをすることができました。リニューアルできたのも先代あってのことで、1周忌の前の日にリニューアルできたことを嬉しく思います。

1周忌では先代の供養をし、リニューアルの報告もさせていただきました。

その1周忌でとても嬉しく思いましたのは、写真の元社員の方々が多数、元気な姿でお越しいただいたことです。

皆さん昭和20年後半頃、20歳代の年齢で松月の社員になられたそうです。
昭和58年に初代が亡くなったころまで、定年まで勤めてくださいました。

左からえいこさん、やよいさん、礼子さん、ちよさん、そして現女将です。

「入社したころの1日の給料は100円だった。当時はまだ配給の時代で、お客様もお米を1合旅館に持ってきていた」

「当時はニッパ(日本パルプ工業米子工場昭和27年に操業開始)ができたころで、ものすごく景気が良かった。境港では毎日大漁が続き、毎日毎日お客様でいっぱいだった」

「漁師のお客様が前の浜でお酒を飲みたいと言って、料理とお酒をどんどん持っていったこともあったよ」

「松月の社員はみんなすぐ辞めることがないので、銀行さんが信頼して家を建てるお金を貸してくれたよ。それで社員はみんな家を建てることができたんだよ」

「旅館の前まで波が来て、旅館が流されそうな時もあった。海岸に鉄条網を置いて出入りできなくして、それはそれは恐かった」

など、貴重なお話をいっぱい話してもらいました。

今の松月があるのは、旅館のために一生懸命働いてくださった社員の方々がおられるからこそです。

当社の80年の歴史のうち30年も当社にいてくださった方達です。戦後の時代から景気のいい時代、不景気のつらい時代を松月とともに一緒になって発展に尽くしてくださいました。当社の宝でございます。

皆さん、いつまでもお元気で、お体を大切にお過ごしください。

当社も皆さんの時代を引き継ぎ、より発展していくよう、現スタッフともども頑張ってまいりたいと思います。

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松月の歴史〜創業80年 その7

2008年07月08日

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【初代ヤスと白木みのる氏】
昭和35年には海岸遊歩道が整備された。松月を拠点にされていた白木みのる氏と初代ヤス。


 初代の弟を戦争で亡くす悲しみを乗り越え、初代と未亡人となった二代目が力を合わせ、女手で切り盛りをしてまいりました。昭和30〜50年代鉄骨のホテルが続々と増えていく温泉旅行全盛の時代にも、初代と二代目は木造の宿と家庭的ぬくもりのある宿にこだわり続け、創業当時から変わらぬなおもてなしでお客様をお迎えしてまいりました。そして、昭和52年、三代目となる現女将福元芳子(1942-)が旅館に入り、ともに旅館をするようになりました。ところがそのわずか5年後の昭和57年、一代で旅館を築き上げた初代ヤスが亡くなりました。以後は現女将が3人の子供を育てながら、旅館を切り盛りしてのれんを守ってまいりました。
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【戦後の看板】
電話番号が4桁の時代。白砂青松の海岸越しに美保関を眺めるモチーフ。


皆生温泉の発見は1900年、今から108年前。
松月は1927年創業で現在81年目です。

今年2008年7月に松月はリニューアルいたします。
世代を超えてお客様にお越しいただける宿として、励んでまいりまいと存じます。

今後とも末永くよろしくお願い申し上げます。

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松月の歴史〜創業80年 その6【荒波との戦い】

2008年07月06日

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【侵蝕される海岸と松月】
軒下まで波に洗われている。建物自体の流出の危機が続いた。昭和初期。


 戦後の激動期は、物資のままならぬ時代を乗り越え、料理旅館として地元の皆さまにかわいがって育てていただきました。皆生温泉も温泉地として発展し、終戦当時は当館を含めわずか7軒しかなかった旅館の数も昭和20年代末になると多くの旅館がぞくぞくと開業して17軒になりました。

 戦後になり、懸念であった海岸侵蝕に対してようやく防潮堤工事が着工されました。まず昭和22年に松月前に第一突堤が完成。いわゆる「とうふ岩」と呼ばれるブロックを海岸線に対して垂直に突き出す防潮法です。しかし、この突堤も建物流失の危機を防ぐことはできませんでした。その後幾度も旅館建物が流失の危機に見舞われ、ようやく海岸線の後退を防ぐことができたのは昭和46年に着工された現在の離岸堤(テトラポット)が完成してからでした。現在も皆生海岸の代名詞となっている海岸沖合100メートルに海岸線に平行に離岸防波堤を設置することにより、長年にわたる自然との闘いに終止符が打たれました。
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【縁側のすぐそこに波が】
上写真の室内から海を撮った写真。右側に突堤が見える。昭和22年の「とうふ岩」より前の突堤だろうか。


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松月の歴史〜創業80年 その5【戦中戦後】

2008年07月05日

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【戦前の旅館裏手の海岸】
侵蝕がはじまる前の海岸。昭和初期。今も昔も目の前が砂浜でした。白砂青松の皆生温泉の通り、松林の中に松月はありました。

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【戦後すぐのころの海岸】
目の前の海水浴場で遊ぶ2代目(右)と3代目女将(左上)

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【昭和22年に完成した第一突堤】
いわゆる「とうふ岩」と呼ばれるブロックを海岸線に対して垂直に突き出す防潮法
目の前の海岸は侵蝕という危険もはらんでいました。以前より盛んに行われていたたたら製鉄が大正年間に終わりを告げ、日野川よりの土砂の流出がとまったため、昭和7年ごろより海岸が侵蝕されてきました。昭和10年には一号源泉が水没。昭和13年には薬師堂が波浪により倒壊。松月も軒の下まで海が洗う時もあり、建物の流出の危機がたびたび繰り返されていました。戦前は侵蝕に対して自然のなすがままでした。

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松月の歴史〜創業80年 その4【戦中戦後】

2008年07月03日

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【初代ヤスと二代目サチ子】
右端から初代ヤス。二代目サチ子(1921-2007)。
三代目芳子(1942-)。初代ヤスの弟善行(サチ子の夫)

 昭和15年に二代目女将の福元サチ子(1921-2007)が鹿児島県の旧士族佐伯家より、初代女将の弟善行の嫁として松月に迎えられ、初代女将とともに旅館を切り盛りするようになりました。

太平洋戦争時代は軍指定の戦争傷病者の方々をおもてなしする温泉療養宿でした。終戦間際には三柳にある陸軍航空隊から鹿児島経由で沖縄に旅立つ神風特攻隊の若き青年たちの常宿で、最後の宴がひらかれると旅館が総出になって歓待をしておりました。翌朝旅館の真上を旋回して別れを告げる青年に、総出で竹竿に国旗をつけてお見送りをしたとのことです。

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